【出戻り営業部編】昭和51年の巡航見本市船 
平成22年3月7日


巡航見本市船の歴史
記録によれば、巡航見本市船は輸出振興策の一助として昭和31年(1956)の12月に貨物船日昌丸を改造して東南アジアをめぐったのがその第一歩と記されていた。その後一年おきに実施されて昭和33年第二回、
次は昭和35年(1960)で10月に第三回の巡航で以前の記事に記述したように、「安芸丸」に出品物を搬入据付で一汗かいた。どうもその都度船が変わっている様で、変わらないのは「貨物船改造」の見本市船であった。
添乗員(説明員?)として誰が乗船したか記憶に無いが、もともと貨物船の船倉を改造しただけで、多くの見物客をスムーズに誘導できるような構造には出来ていないので大分苦情が殺到した様子。政府も本腰入れて見本市専門の船の建造にとりかかり進水したのが昭和37年(1962)さくら丸であった。以後10年間世界各地は寄港して輸出振興に大いに貢献したが、さらに展示室や見物客用の設備を充実させた新さくら丸が昭和47年(1972)に建造された。この新造船で営業部長 自ら乗船して北欧中心にまわり市場開拓をされた。その後昭和49年には中南米昭和51年(1976)には中近東巡航する事が決定になり、当時産油国として市場価値が多いに高まっっていた中近東東欧の市場開拓で当社も積極的に参加と決定した。この新さくら丸はその後見本市船として世界各地へ寄港して活躍したが経済状況の変化に伴い見本市船の評価も変わってきたので昭和56年(1981)に商船三井が買収してクルーズ客船として改造して使用してきたが、老朽化のため1999年(平成11年)に27年の輝かしい歴史に終止符を打って解体されて、その 一生を終えました。 
昭和51年に入手した「新さくら丸」のパンフレットから、その素晴らしい面影を御覧下さい。


新さくら丸への出品物搬入作業
昭和50年にイラクを中心にした産油国周辺への輸出が始まり、米国:欧州に続く将来の有望市場として中近東に注目が集まった。 その様なj情勢の時に巡航見本市船が中近東に行く事が決定されたので、早速その申し込みをしてブースの確保をした。当然担当はこの出戻り新米課長となり、昭和51年7月決定以降見本市協会と頻繁な打合せをして、いよいよ具体的な出品物搬入となった.

昭和51年(1976)9月16日
出品物はブースの広さによって制限されているので、事前に決定した製品を梱包して神戸に停泊中の「新さくら丸」宛に発送。 16日の朝私を含めて総勢四人の人足が神戸に出発。 神戸港の新さくら丸に乗船してその素晴らしさにたまげた!!16年前昭和35年に、貨物船を改造した「安芸丸」の深い船倉におっかなびっくり降りて据付した(この事は既述の文と写真を参照下さい)昔と大違い。しかし作業だけは同じだった。ブースの前に置いてあるだけの出品物の開梱から据付だけで16日の夕方までかかった。 空調は働いてなかったので、作業衣はすぐ汗だくで半袖での作業だった。


馴れぬ力仕事でくたくたになり、夜三宮駅近くのビジネスホテル「北上」に宿泊、夜の神戸に出る事無く9時にはバタンキューであったと記録が残っていた。宿泊費は朝飯付きのツインの部屋で一人@3750円だった。どんな部屋だったか当時の写真を見てください。

このビジネスホテルの北上は今回の記事をかくにあたりGoogleで検索してみたら34年後の今日でもちゃんと存在して営業していたのにはおどろいた!
◆北上ホテル

9月17日
この日は朝9時には乗船して作業開始、午後早くに終了する予定が電気配線や調整に手間取って結局終わったのがゆうがた5時過ぎ。下船する時に見た六甲山や神戸港の停泊している船が夕日に輝いていた。 大阪駅で夕食して名古屋まで皆な寝ていたが、それでも乗り過ごす事なくちゃんと名古屋で下車したのは今から思うと「奇跡」に近い!! 
この後新さくら丸は、すべてのブースの据付完了を確認後東京へ出港してそこから関係者が乗船して 10月14日に東京出港してまずシンガポールに寄港して、そこからスエズ運河を通過してギリシャのピレウス港に10月25日到着の予定で私はこのピレウスから参加する事になり日本を10月20日に出発した。